維新ゆかりの地

武雄の代28代領主鍋島茂義は、23歳の若さで佐賀藩の請役(筆頭家老)に異例の抜擢をされたほどの人物でした。
茂義は、天保年間の初め(1830年頃)、長崎警備を担当した際、オランダ船を見学、西洋の進んだ科学力に深い感銘を受け、蘭学の積極的な導入を開始したとされます。天保3年には、当時の西洋砲術の第一人者高島秋帆に家臣を入門させ、その後、西洋砲術や戦術の習得、大砲鋳造、種痘の実施、ガラスの製作、写真術の導入、蒸気船製造など様々な分野の事業に取り組んでいます。
茂義は佐賀藩主鍋島直正の義兄であることから、直正に大きな影響を与え、武雄領の功績は、佐賀本藩の高度な軍事技術・機械技術の先駆けとなったと言えます。幕末・明治維新期の武雄の先進性を偲べる関連の地を訪ねます。

見どころポイント

①塚崎の大楠.jpg
武雄城と塚崎の大楠
所在地 武雄市武雄町大字武雄5563-2(武雄市文化会館北側)
武雄鍋島家の居城、別名を塚崎城ともいいます。本丸・二の丸・三の丸をもつ城でしたが、一国一城令で本丸を壊し、武雄領主の居館となりました。文化会館の北側に塚崎の大楠がありますが、当時のお城の東端部をうかがい知ることができます。また、本丸西端部には当時の石垣が一部残されています。
②朝粥.jpg
薬草園
所在地

武雄市武雄町大字武雄5563-2

(勤労青少年ホーム側)

関連サイト(武雄鍋島がゆ)

http://www.takeo-kk.net/asakatsu/gruel.html

文化会館の勤労青少年ホーム側にある池は薬草園跡。茂義は、西洋科学の導入を図る一方で花卉栽培も行い、「温室ニハ蒸気ヲ通シ四季花ノ絶ユルコトナカリキ」と、温室設備を用いて国内外の植物を育成していたことが記されています。現在市内の各旅館では、薬草園にちなんで「鍋島薬膳朝粥」を提供しています。※朝粥については対象の宿泊施設に直接お問い合わせください。
③文化会館庭園.jpg
文化会館庭園
所在地 武雄市武雄町大字武雄5563-2
武雄領主鍋島家の別邸(第29代以降は本邸)から、武雄神社の参道へ抜ける通路が今も残っています。オルレコースの一部にもなっている風情を感じながら、武雄市図書館・歴史資料館への近道になります。
④黒門.JPG
黒門
所在地 武雄市武雄町大字武雄5563-2

武雄領主鍋島家の別邸(第29代以降は本邸)から、武雄神社の参道へ抜ける通路が今も残っています。オルレコースの一部にもなっている風情を感じながら、武雄市図書館・歴史資料館への近道になります。

⑤こども図書.jpg
武雄市図書館・歴史資料館(武雄市こども図書館)▼
所在地 武雄市武雄町大字武雄5304-1
お問合せ 0954-20-0222
公式サイト https://takeo.city-library.jp/
歴史資料館では年間を通じて企画展示会が開催されます。佐賀藩の洋学研究は、武雄の西洋砲術研究から展開しました。鍋島茂義は、1832(天保3)年、西洋砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆のもとに家臣の平山山平(醇左衛門)を入門させ、2年後には茂義自身も入門します。日本人が初めて鋳造したモルチール砲は、この時武雄にもたらされました。
⑥武雄神社.jpg
武雄神社 ▼
所在地 武雄市武雄町大字武雄5335
お問合せ 0954-22-2976
公式サイト http://takeo-jinjya.jp/
戊辰戦争に出陣した武雄軍団。庄内藩の降伏を受けたあと鍋島茂昌は明治天皇に面会し、労をねぎらわれたが、優秀な洋式装備を誇る武雄軍団を東京に引きとどめる動きもありました。軍団は武雄に帰着後、速やかに武雄神社に参拝しています。
⑦御船山(秋).jpg
旧武雄領主鍋島氏別邸庭園(御船山楽園)▼
所在地 武雄市武雄町大字武雄4100
お問合せ 0954-23-3131(御船山観光ホテル)
公式サイト http://www.mifuneyamarakuen.jp/
旧武雄邑主鍋島氏別邸庭園(御船山楽園)は、武雄のシンボルである御船山の南西麓にあり、国登録記念物です。弘化2年(1845)に武雄の領主鍋島茂義が京都から狩野派の絵師を招いて造った「萩の尾園」という別邸の池泉庭園を基礎としています。明治以降は、庭園の区域を拡張し、サクラやツツジを増やし、遊覧の名所となりました。
⑧中村涼庵旧宅.JPG
中村凉庵宅跡(外観のみ見学できます)
所在地 武雄市武雄町新町
お問合せ 0954-23-5166(武雄市文化会館内文化課)
中村凉庵は、医者を志し京都や長崎で学びました。佐賀藩では嘉永2年(1849)に日本での牛痘普及の始まりとなったのは有名ですが、武雄では天保10年(1839)(一説には1837年)、中村凉庵によって牛痘種痘が実施されたとする口伝・伝記があります。
⑨元湯 梁入り.JPG
武雄温泉 ▼
所在地 武雄市武雄町大字武雄7425
お問合せ 0954-23-2001(武雄温泉株式会社)
料金 元湯入浴料 大人500円、小人250円
江戸時代、温泉は武雄領主の所有であり、御茶屋は長崎街道塚崎宿の本陣を兼ねていました。入湯料は領主の収入となり懸硯(機密費)に繰り入れられ、湯元大修理等の特別の場合を除いて他の事には一切使わせなかったとされます。明治になって国有とされた温泉は、明治8年(1875)に「塚崎温泉組」によって運営されるようになりました。「元湯」は現存する最古の木造風呂です。
⑩廣福寺紅葉 004.jpg
廣福寺
所在地 武雄市武雄町大字富岡7438
お問合せ 0954-22-2649

鎌倉時代中期、聖一国師が開山した武雄の古刹です。仏師運慶の作と伝えられる国指定重要文化財「木造四天王像」があります。約400年前、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」の折に武雄領主後藤家信(後藤は後に鍋島を名乗る)が連れ帰った深海宗伝が最初にここに居を構えました。その焼物の技術が大砲づくりに活かされました。

⑪円応寺.jpg
円応寺
所在地 武雄市武雄町大字富岡10513
お問合せ 0954-22-2336
円応寺は十一面観世音菩薩を本尊とする曹洞宗のお寺で、永正16年(1519)に第18代武雄領主後藤純明を開基、了然禅師によって開山された武雄鍋島家の菩提寺です。武雄領主20代から代々のお霊屋があり茂義侯もここに祀られています。
⑫飛龍窯.jpg
飛龍窯 ▼
所在地 武雄市武内町大字真手野24001-1
お問合せ 0954-27-3383(火曜日休館)
関連サイト http://www.takeo-kk.net/sightseeing/001298.php
今から400年以上も前に、武雄焼の祖深海宗伝が武内町黒牟田・内田地区で窯を開きました。その末裔深海墨之助は、明治8年深川栄左衛門らと香蘭社を設立、渡米して海外に日本磁器の販路をひろげました。すぐ近くには、江戸時代中期から営まれた土師場物原(はじばものはらやま)などが国史跡になっています。2018年は宗伝没400年にあたることから、彼らの事績を顕彰します。
⑬柿田代遺跡.JPG
柿田代遺跡
所在地 武雄市武内町大字真手野字柿田代
武雄市武内町柿田代地区には、天保年間(1830~44年)頃から「煙硝屋」と呼ばれる火薬の原料を粉にする水車小屋があったと伝えられています。また、水車を利用して大砲の筋切などを行う旋盤加工場や「硝煙」を得るために動物の内臓物を埋めていた「ずうめき」などが伝承されており、江戸後期の大砲関連の産業遺跡とも言えるものです。
⑭羽根木神社から琴張山.JPG
東川登・大砲試射
所在地 武雄市東川登町大字永野3557
武雄領で造った様式砲の試射は、武内町真手野の台場で行われていましたが、天保15年(1844)に東川登町羽根木神社の境内に台場が移されました。標的は2㎞離れた琴張山でした。
⑮山口尚芳肖像写真(※注 武雄市蔵と明記).jpg
山口尚芳(玉垂神社)※武雄市蔵
所在地 武雄市武雄町大字永島14724
明治4年(1871)岩倉具視を全権大使とする米欧視察の全権副使として参加した外務少輔山口尚芳(ますか)は、武雄の出身。米欧派遣から帰国後、明治7年に佐賀戦争が起きると、山口は海軍の警備兵を率いて佐賀に入り、鎮圧に努めました。また、明治8年には元老院議員、14年には初代の会計検査院長に就任、同時に元老院・参事院議員も勤めました。
⑯モルチール砲.jpg
平山醇左衛門
所在地
平山醇左衛門は領主の命を受け、天保3年(1832)高島秋帆に入門します。その後、佐賀藩の大砲演習や江戸徳丸原で行なった大砲の実射演習などで指導的な役割を果たしました。天保14年、高島秋帆は讒訴により幕府に捕えられ、事件への連座を恐れたためか、同年12月、平山は斬首に処せられ非業の死を遂げました。山内町鳥海にある彼の墓碑には「行年三十四才」と刻されています。
交通アクセス